織田信長に黒人の家臣がいた
面白い事実を最近知った。
織田信長に黒人の家臣がいたというのだ、
名前は「弥助」。
黒人奴隷といとアングロサクソンの時代に尽きるが、
日本にもこんな話が、、
お時間あれば下記みてみて
黒人
男性で、現在のモザンビーク
出身とされる[2]
。天正
9年2月23日
(1581年
3月27日
)に、イタリア人
の宣教師(伴天連
)アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
が信長に謁見した際に奴隷として引き連れてこられた。
『信長公記
』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述されている。年齢は26~27歳、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と記述される[3]
。
天正9年3月11日
(1581年4月14日
)付でルイス・フロイス
がイエズス会
本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤ
の書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して死傷者が出るほどで、初めて黒人を見た信長は肌に墨を塗っているのではとなかなか信用せず、着物を脱がせて洗わせたという[4]
。
信長はこの黒人を身近に置くことにし、天正10年4月19日(1582年
5月11日
)付けの『松平家忠
日記』にも「名は弥助、身の丈六尺二寸(約187cm)、黒人男性、身は炭のごとく」と詳細に記述されている。信長の甲州征伐
の完了に伴う帰国途上での出来事で、弥助も従軍していた。
天正
10年6月2日
(1582年
6月21日
)の本能寺の変
の際には、本能寺
に宿泊していて明智光秀
の襲撃に遭遇し、信長が死ぬと二条御所
に行って戦った末、明智軍に捕縛された。家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「動物で何も知らず日本人でもない」との理由で処刑はせず、南蛮寺
に送った[4]
。以後の消息は不明。
なんともミステリアスだ。
以後、どうなったのであろうか。。
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